宮下工務店が、地域密着型工務店を目指す理由(わけ)
宮下工務店は京都市右京区花園で工務店を営んでおります。
元々は大工職人であった私の父が、1974年に独立し、創業した工務店で、私はその二代目になります。
父は中学を卒業と同時に京都に出て来て、最初は住み込みで傘屋の丁稚奉公をしていたと聞いています、その後、大工職人としての修行を積み、晴れて職人となり、1967年当時福岡から京都に出て来ていた母と結婚し、1969年に私が生まれました。
父が独立して5年が経った頃には、大工さんを5人程抱えたそれなりに立派な工務店に成長していたようです。当時私は子供ながらに将来はこの工務店を継ぐのだと、その頃すでに感じていた事を記憶しています。
1979年当時の周辺地域はというと、現在は当たり前のように存在している最寄りの大型スーパーも、コンビニエンスストアもまだ無く、買い物は駅前商店街、子供は駄菓子屋に集まり、少し悪さをすれば、誰彼かまわず、怒鳴ってくれていた、地域の人々が今よりも身近な距離に感じられた時代でした。
時は流れて1997年、当時サラリーマンとして4年目を迎えていた私に父がしびれを切らして、いい加減に店に帰ってこいと催促し始めました。その時の仕事に慣れてすごく楽しかった頃だったので、あまり辞めたくなかったのですが、昔から決めていたことだったので、後ろ髪を引かれながら退社を決意いたしました。
工務店に入った私は当時28歳で、『現場管理をしろ』と言われたものの、何もかもが初めての事なのでどうして良いかわからず、しかも職人気質の父は何も教えてはくれず、『とにかく現場で覚えて来い』の一点張りで、最初は仕事を覚えるのに大変苦労した事を覚えています。
2000年頃、一般の戸建て住宅を多く手がけていた当社は、バブル崩壊後数年たち、仕事が少しずつ減り、職人さんも辞めていき、最も苦しい時期を迎えておりました。
なんとかしないといけないから、父も私もそれぞれに仕事探しに必死に駆け回っていたのを覚えています。どうにかこうにか、仕事が入り始めて、忙しい時期などは、それぞれが何をしているか解らない状態。お互いが互いの仕事の事を把握するように働きかけては見たが、なかなか上手くいきませんでした。
それから数年たち、2009年1月の寒い日の急性腎不全が原因で父が急死。あまりにも急すぎて何も理解することが出来ず、まるで夢でも見ているかの様で、苦しそうな父が病院で最後に私に交わした言葉は、『今日の工場加工、上手くいったか?』でした。
物事を考える暇も無いまま、葬儀を済ませ、急すぎて伝えきれなかった方々に報告して廻り、会社の代表交代の手続きをし、父が抱えていた仕事の整理をしてと、急に立場が一変した私はとにかく混乱し、今振り返ってみると、父が亡くなってからの2ヶ月間程は正直、自分の言動や行動の記憶が断片的で、当時の事を鮮明に思い出すことが出来きません。
目指すは、右京・花園地域NO.1の工務店
それから1年程が経過し、自分の立場にも少しずつ慣れてきた私は、自分が代表となったこの工務店をどんな工務店にしたいのか、はっきりとしたビジョンみたいなものが必要だと感じて、これまでの業務内容や取引先、現場の地域性、技術面での強み、何よりも仕事をする上での充実感、それに繋がる社会貢献性、じっくり考えて私が出した答えは、『地域密着型工務店』を目指そうと思いました。地域密着、京都でいいますと、要するに学区単位程度のエリアのことであります。かなり狭い範囲ではありますが、狭いエリアの中に多くの現場を持つことで、サービスの対応も早く、経費も削減する事が出来ると考えました。
さらに地域密着を目指す最も大きな理由としては、工務店という仕事をつうじて、昔から住み慣れたこの地域に少しでも貢献出来ればと考えたからだ。そんな考えが芽生えたのは、父が亡くなった時の体験と、子供が地域の中で成長していくのを見ていての事でした。
私自身も、父が亡くなった時に、気にかけて下さって『頑張りや!』、『困ったらなんでも言ってや!』と、支えてくださった方々のお陰で、なんとか今があるわけで、身近な所に気に懸けてくれている人がいるという事がどれほど心強くて励みになるかを実感してきた。
では工務店として何ができるかと考えた時に、昔に比べて広がってしまった地域の人々の距離を少しずつまた身近な距離に近づけるお手伝いが出来ればと考えました。そのアイデアが今行っている「木工教室」になります。大人も子供も無料で、現場で出た端材を貯めておいて、材料として少し加工して、それぞれ思い思いの作品を作ってもらう。これまで5回開催して、毎回20~30人程度の人たちが来てくれて、来てくれた人同士がそこで知り合いになったり、と地味ではありますが、子供たちの笑顔をみているととてもうれしく感じます。
これから先、工務店の役割は、住宅を建てる、治すに留まらず、防犯面や福祉の面でも関わる場面が増えていくはずということは、仕事を通じて学んだ事でもありました。『住民自身が地域づくりの主体になる』為には、地域の人々に愛され、地域の事を深く知る工務店になる努力をしていかなければならないと思っています。
そう思い立って3年、いきなりの方向転換はまだ出来きておりませんが、、先ほどの木工教室の様なイベントなどを企画、開催したりしながら、少しずつ地域に認めてもらい、何年、何十年かかるか解らないが、いつかは花園でナンバーワンの工務店に成る事が、宮下工務店の目指すところです。